第1部「開発編」(〜41歳)  ※年齢は数え年
  第1章 峠と海の向こう    第7章 帯広は不毛の地か
  第2章 運命の出会い    第8章 豚とひとつ鍋
  第3章 晩成社結成   第9章 友情亀裂
  第4章 帯広の地に決定    第10章 勉三孤立
  第5章 別離の宴   第11章 リク戻る
  第6章 陸・海路隊の難行   第12章 第十年目


     第6章 陸・海路隊の難行(31歳)

 一方、帯広に単身滞在の銃太郎は、
「明治十六年一月一日 晴。鈴木銃太郎ひとり帯広の地に新年を迎えたり」
 と、日記に書いた。
 話し相手もなく、掘立小屋でひとり寒さに耐えるのは、牧師の身であっても苦痛であ
った。時には雪原に出て鳥獣を射止めて食べた。また、好奇心いっぱいに近づくアイヌ
の子が戸の外から覗き見ることもあった。銃太郎は己の目線を子供の高さにして、日本
語を教え、アイヌ語を学ぼうとした。だが、親たちが和人を警戒することから、簡単に
親密な関係にはなれなかった。
 草分けの地には、警察も病院も、郵便局もあろうはずもない。手紙は大津から帯広へ
向かうひとに偶然頼むしかない。勉三が昨年、自分と別れ、北海道を離れる十一月十日
に函館から出したものが、この一月五日に届く有り様であった。
 伊豆辺りで感じる暖かさと異なるが、帯広でも三月になって寒気が緩みだした。東風
が吹いて雪が解け始め、暖かさは銃太郎の全身に疲労感を与え、睡魔を襲わせた。 

 しかし、晩成社移民団の到着を思うと、銃太郎はじっとしていられなかった。どんな
作物がこの土地に適すのか、昨年来の実験を再開しなくてはならなかった。寒暖計の目
盛りは勿論、成長を克明に記録した。雪解けの個所から鍬を振るい、四月になって、え
んどう豆、早ささげ豆、五月豆、ねぎの種を蒔いた。例え猫の額ほどの畑であっても、
広漠な十勝平原の礎となると思うと、力が湧いた。
 それにしてもと、銃太郎の心に不安が生じた。勉三ら一行の到着が予想以上に遅いの
だ。
 四月三日、一月十三日付大沢発、勝の手紙が舞い込んだ。
 それには、
「移住者は二月下旬に横浜集合、三月上旬同港を出る手筈……」
 と、あった。

 銃太郎は、作業の合間に西と南の方角に視線をやった。仲間たちが樹林を抜け、草原
を隊列を組んでやって来るのを待ち望んだ。
 四月中旬になると、さすが銃太郎も猜疑心が充満し、移民団の延着を怪しみだした。
三月上旬、横浜を出たのなら、もう着いていてよいではないか。あの勉三の開拓の熱意
は偽物だったのか。やはり大金持ちの坊ちゃんの絵空事で、いざ本番となってひるんだ
に違いない。そんな男に騙されて、十勝野にひとり放置される自分が、道化師に感じら
れてならなかった。
 その反面、主に身を捧げる身でありながら、誓った友情を疑う自分が恥ずかしくもあ
った。その煩悶は、一行を目前にするまで続いた。 
 時間の経過は、アイヌの子供を引き寄せた。特に少女コカトアンは愛くるしい瞳を輝
かせ、銃太郎が育てる作物に興味を示し、日本語を教えてくれとせがんだ。彼はアイヌ
の人たちとの交流がなければここでは暮らせないと、懸命に近づいた。そして、互いの
言葉を教えあった。それが彼にとって唯一の救いとなった。また、彼女からエハという
豆類の根が美味なことも教わった。

 一方、函館の勉三は、銃太郎を思いやっても移民団を率いる身であれば社務もあり、
例の速足で現地へ赴けなかった。
 勝を除く移民団一行は、四月半ばにして山に雪を戴くことに、まず驚かされた。そし
て、暖国育ちの彼らは、北海道の寒さに身も心も萎え、夢が縮かむ思いとなった。
「オラやだ。ここから伊豆へ帰えしちゃくれまいか」
 と、早くも里心を出した。
 勉三は、力ある者には語気も粗く噛みつくが、力ない者への説得は苦手だった。気弱
になった者たちを思えば、強い言葉を吐けなかった。
 本来なら一挙して出発したかったが、陸路を希望する十二名を先発隊とし、四月十六
日函館を発たせた。
 だが、陸路隊長となる勉三とリクら四名は、用務済み次第あとを追うことにした。
 一方、海路隊は勝が率い、十一名で構成された。帆船「日光丸」が函館を出たのは、
四月十八日であった。 
 その海路隊も、サルルで五名と、六名に分裂した。また、陸路隊も茂寄で六名と八名
に、しかも、幌泉に二名を残留させた。結局は五分して帯広入りするのだ。

 まず海路隊の難行から触れよう。この隊は主に子供連れと年寄りの十一名で構成され
た。二歳の乳飲み子もあり、年長者は五十三歳、五家族であった。
 日光丸は、四月十八日午前九時半、函館港を離れた。当初は順風で、夜十二時には恵
山沖に至った。だが、そこから風がぴたりと止んで、船は丸一日以上、微動だにしなか
った。二十日朝、やや西風で僅かに進んだが、今度は逆風となり、ついには森港に引き
返さなければならなかった。二十一日も東に向かう風はなく、上陸してそれを待った。
 二十二日朝、ようやく西風があり出帆した。だが、またも風は止まった。二十三日に
なっても襟裳岬をかわすことが出来ず、様似沖に達するのがせいぜいだった。そして二
十四日朝になっても風はなく、船に根が生えたように前進しなかった。
 勝は、晩成社の荷物を守ることと、陸路隊より早く帯広に達し、道具を搬入して陸路
隊一行を待とうと、海路を選んだのだ。しかし、船は一向に進もうとしない。海の上を
歩いて行きたい心境であった。
 再び逆なでするように、午後二時ごろより逆風が吹き出し、さらに四時には東南風と
なり、霧が出て視界を遮った。
 乗客は幌泉へ上がり、陸路を希望する者が続出した。
 船長もそれに応じようとするが、岸に近づけなかった。やがて今度は強い西風となっ
て波も荒く、船を岬の磯に叩きつけようとした。
 勝は日記は、
「ますます風勢強く、陸に打ち上げんとする勢いあり、風に任せて東に行かんとせば襟
裳岬に打ち上げんとし、行かざれば後ろの岸に打ち上げんとし、進退これ窮まる。船長
はじめ水夫一同考え尽き顔色無かりしが、一人の水夫進み出て言う。《碇泊するも 人命
を失い、然れども進めば万に一岬を回ることを得べし。然れば一時難を逃れべし》と。
アンカー綱を切る。帆を上ぐ。船矢より早く幸いに岬を交わして進む。然れども風ます
ます怒りて船転せんと欲し、船中の荷物は転じ波は甲板を上がり、キャビンより荷積み
個所まで水が入り、一同只ただ死を待てり。されども襟裳岬を回りて風力は山のため大
いに減じて、ついには十二時サルル前に碇泊するを得たり。実に船長はじめ乗組みの一
同、九死に一生を得、喜び合えり。私はこの間《アルマイチーゴッド、我らを助けたま
え》と心において呼びたり。この船に船長と水夫六名乗りおり、彼らの尽力にて助かる
ことを得たり。これ神、我らを助けるため彼らを乗らしめたると思う」
 と、その恐怖を活写している。
 なお、地獄さながら浸水が激しく沈没を覚悟した時、勝は晩成社の大切な積荷を樽に
封じて流そうとまでした。彼は船の無事を確認すると「アリガトウ」を連呼、甲板を這
い回って喜んだ。
 二十五日、乗船者全員は、ひとまずサルルに上陸した。
 勝は一同に、
「陸行したい者は陸行、船で行きたい者は船でよし」
 と呼びかけ、いつものように強制しなかった。
 この問いかけに、二歳、四歳の子を持つ一家、四名だけが海路を望んだ。他の六名は
海にこりて陸路を選んだ。
 勝は、荷物を船長に託し、陸路班の先導をすることにした。橋もなく、雪解けの川水
が溢れる中を歩き、難儀しつつ大津に到着したのは四月二十七日午後三時であった。
 勝らが大津の海を見た時、まだ日光丸は沖合にいた。実は昨日着いたが、荒波のため
二十八日、ひとと荷揚げの一部がなされる有り様だった。
 子連れの家族は、生きた心地のない青冷めた顔で、勝にもたれかかるように上陸して
きた。
 五月三日、四日と海路隊は二組に分れ、アイヌの丸木舟を雇い、十勝川を帯広へと向
かわせた。勝は晩成社の荷物を運ぶ段取りのため、大津に残った。
 そして八日、陸路隊の一部、六名と出会った。
 彼らは異口同音に、
「怖かった。怖かった」
 を、連発した。そして、
「副社長ら八名とは広尾で五日に別れたが、山道を帯広へ向かっているづら」
 と、ニコリともしないで言った。何で住み慣れた暖かな郷里、伊豆を捨てたのか、後
悔の念と、疲労が溢れる話しぶりであった。
 勝は、勉三らも無事であること知って胸を撫で下ろした。そして、首を傾げ、
「ちょっと待てくれないか。二名、員数が合わないではないか。確か陸路隊は十六名の
はずではなかったか」
 と、問えば、
「それがナ、Fのおっかあが、途中で体が悪くしゃがって、おっかけ来るづら」
 と、ひとりが答えた。
 その言葉の裏に、現地に着くだけで難儀な土地にあきれ、Fは逃げ出そうと仮病を使
っているようにも受け取れた。
 帯広には七、八日と海路隊二班が入地した。伊豆から二カ月、横浜から一カ月近くが
経過したことになる。
 銃太郎は、彼らに住居の割り当てをしてから、九日の朝、十勝川を大津へ下った。義
理の弟となって初めての対面となる勝との再会も楽しみだが、荷物を一日も早く帯広へ
運び、本格的な開拓に着手したかった。その夜、大津に着き、無事を喜んで酒を飲み交
わした。
 その勝らが帯広に着いたのは、五月十四日午後三時過ぎであった。

 また、陸路隊も難行の連続だった。
 勉三ら四名を函館に残し、十二名が先発したのは四月十六日、八里ばかりを歩いて宿
野辺に泊まった。十七日、四里を歩いて森村へ到着した。そして、森港からは室蘭へ船
で向かう手筈であった。だが、便船がありながら、宿代を稼ぐため宿の主人はそれを隠
したのだ。予定がくつがえり、宿を変えて十九日まで森村滞在を余儀なくされた。
 二十日、ようやく船が出るが、今度は室蘭港を前に逆風となり、有珠湾へ入って宿を
とった。そして二十一日、紋鼈を経て、旧室蘭に泊まった。
 後続の勉三らは、十八日、汽船「弘明丸」で室蘭へ向かい、十九日朝、上陸して先発
隊の消息を聞くが、着いた気配はなかった。
 先発組との連絡が取れないまま、やむを得ず先行することにした。二十日、幌別に出
たところで、同行のFの妻が道端で苦しみ出した。それを機に勉三は、先発組を待つこ
とにした。
 その時、Fは妻を背負い、
「俺らは、これと二人三脚の身、皆に遅れると迷惑をかけるからノー。一歩でも先を歩
きますダー」
 と、勝手に歩き出した。
 リクは、みすぼらしくあっても、F夫婦の二人三脚の仕草が羨ましかった。
 ふたりになっても勉三は、リクの心細さに言葉を掛けようとしない。怨霊に取りつか
れた人間となって一足先を考え、見つめ続けるだけであった。
 ひとの通ることの稀な道、獣道に似た、何時たどり着くか知れない道、ろくな食も宿
もなく、寒さが身にしみる道であった。リクは勉三の歩調に合わせようと努めてきた。
時には心臓のあたりに異変を覚えた。今この不安を口走れば、勉三は自分を置いてけぼ
りにするだろう。ただ黙って歩くリクであった。
 勉三は、先発組を待つと言いながらも、二里半ほど行って「北望社」を訪ねた。ここ
はまだ耕地も少なく、樹下には福寿草が咲き誇っていた。そして故郷のタンポポを思い
浮かべた。
 この時、土に杖を突き立てると十五センチほど刺さったが、その下は凍って鉄のよう
であった。この北望社は三年前に創設されたが、主人が肺病となり、現在、大阪で療養
中とのことであった。聞けば幸い経過もよく、近い将来、京都、大阪から移民者が来て
盛大になるだろうと、主人の母と雇い人が語った。
 なお、同社員のひとりがここへ家屋を建てようと単身金を持っての途中、熊に襲われ
て死んだ話や、村人の放った馬が社の耕地を荒らし、憤った社員らがこれを殺したこと
で、今も村人と抗争していることを聞いた。丁重なもてなしを謝し、また二里を歩いて
登別に宿をとった。
 ここで先発組と落ち合うべく、二十一、二日と勉三とリクは過ごした。彼は二里ばか
り山へ入ると温泉があり、崖上より直下する滝もあり、諸病に効能あると聞いて来た。
心遣いはうれしかったが、雪深く、疲れを理由に応じなかった。ここでの一息の休憩に
生きた心地するリクであった。
 そして勉三は、二十二日夕、先発組の竹二郎がひとり探索に来たのに会った。また、
他の者もこれに追いつき、その晩、一同は途別に同宿、勉三の顔を見て歓喜した。
 二十三日、総勢十四名となって登別を出発した。足弱の三名に三頭の馬を雇って与え
たが、その中にリクは含まれなかった。なお、二日を休んだこともあり、徐々に開拓者
の女房の芽生えがあった。この日は八里歩いて覚生村(おぼぼむら)に泊まった。
 二十四日、午後三時ごろより雹(ひょう)が降った。覚生より三里余で苫小牧へ出る
が、九名が札幌街道を進むというハプニングが起きた。幸い一里半を行ったところで、
札幌から来たひとに出会い、引き返して来たのだという。だが、それと出会ったのは夕
刻で、全員が馬を雇ったが雹もあり、三里行って勇払へ泊まるのがせいぜいだった。な
お、先発組五名は厚真まで行った。
 二十五日、天気はよく暖かかった。厚真で先発組と落ち合い、厚真川を渡り、鵡川を
渡った。ここで足弱の者に三馬を雇い、沙流川端に達した。馬丁は直ちに鞍をはずして
丸木舟に積み、馬を水中へ放すと、濁流に頭だけ出して泳ぎ切るのだった。ひとは二百
メートルの川幅を丸木舟で渡った。
 二十六日、朝より雨で、門別を出るとその激しさを増した。その日はわずか三里進ん
だだけで、賀張に泊まった。
 二十七日、またこの日も三馬を雇い、五里を行って下々方村で馬を返した。ここで弁
当を開き、澁茶利川を渡り、二里行って門別村に泊まった。
 二十八日、勉三は日記に、
「朝曇。三馬を雇い門別を出て三里程のところにある姨布駅にて馬を返し、昼食をとっ
て駅を離れるころ細雨となり、また三里程隔てた鳧舞に至れば風雨大いに来る。携うる
もの稀なれば各様の姿装をなす。蓆をいただく者は蓑虫のごとく。毛布、外套はもっと
も雨具たり。蝙蝠傘はあたかも芭蕉の風に破らるるに異らず。一里ばかりにて原虎之助
氏に宿せり。同行の者ここに初めて蘇生したる思いをなし、ただちに烈火を囲みて暖を
取り、湿衣を燥め乾したり。厨に鰈のごとき魚堆積せり。購いて羮汁として喫飯、もっ
て凍餓を免るるを得たり」
 と、書いている。
 浦河、様似山道を経て、幌泉に着いたのは五月一日であった。翌日、サルル山道はま
だ深雪く、行客稀と聞いた。三馬を雇い、山道を越え、襟裳岬の東側・庶野(しょや)
へ出た。まだ日も高く前へ行こうとするが、これより満潮となり、磯路は危険というの
で、そこに泊まった。
 三日、一行は庶野を発った。
 勉三は、
「そこの磯を伝い二里程行きたるころ巌牆に梯を架し、なお足らざるところは葛蘿をつ
なぎたり。同行者は行李を負いながらよじ登ることなれば、誰しも困じ果てたる体なる
に、某は気を鼓し、往昔、われら朝鮮征伐せし時は、かかる難所をよじたることなりし
などと笑いつつ、互い手を取りて登りしまいたりと思えば、また葛蘿をつなぎ下せり。
足の触れたる岩は礫々として崩れ落つるにぞ、この危きこと肌に粟を生ぜり。満潮もし
くは激浪の時は海水磯面を没せりと。一里半ほどにしてサルルに至り行厨を開き、それ
より六里なる広尾茂寄村に着き、若松金二郎に宿す」
 と、難行の様を描いている。
 四日、朝より雹雪があり、発つことは出来なかった。
 そこで米、味噌を購入して帯広入りの準備をした。明日は一気に帯広に突入する予定
なのだ。
 五日、茂寄を出発しようとすると、またも雪となった。勉三以外はこの雪に出端をく
じかれた思いがし、顔色を変える者が続出した。
 Tら六名は、海岸沿いで大津まで行くと言い出した。勉三はここまで来て一同の心を
逆なでしないように自由裁量とした。
 勉三ら八名は、アイヌを案内人に、茂寄村を発った。刺虎川を渡り、一里ばかりを歩
いた時、積雪はいよいよ深く、ついには空小屋に泊まらなければならなかった。
 六日、勉三ら一行は雪が止んだ中、雪解けで水勢の増す西南風川を自力で渡った。
「躯幹に長大なる者はさほど苦難は見えざりしが、短小なる者水の深さに臍(ほぞ)を
浸し、ことに水勢急なれば足元の砂石流れて踏み留まりかね、歩を急がざればつまずか
んとす。ああ危ういかな」
 と、日記に書き、アイヌの家に低頭して一夜の宿を頼んだ。
 七日、朝から雨まじりの雪が降った。どの顔にも寒さと疲労が重なり合っていた。こ
の悪天の中を歩けないと判断した勉三は、もう一夜の宿を頼んだ。だが、あっさり断ら
れてしまった。
 宿の主人は、
「これより四、五里も行けば宿がある」
 と、言うのだ。
 勉三は疑いもなく出発しようとした。しかし、先導のアイヌの男はしきりに首を傾げ
た。
 それに気づいた勉三が詰問すると、
「旦那、わしらは嫌われたんだ。確かに以前はあったが、今はひとは住まず、小屋の体
をなしていないはずだ」
 と、答えた。
 一同は、不安な心で一里ばかり進んだ。この地は「タイキ」という名であるという。
雪は激しくなるばかりだった。見れば空き家があり、そこに泊まることにした。屋根は
破れ、容赦なく雪は降りそそいだ。寒さは強く、夜通し眠れなかった。特に火気が絶え
ると、その寒さは筆舌に尽くせぬほどであった。
 だが、勉三は、この地との縁を、
「大器は晩成というに、この地名もタイキと言えば、実に由縁のあること。苦辛成事の
秋を心期したり」
 と、述べている。
 こうして五月九日午後三時、勉三ら一行は帯広に着いた。
 海路隊の何名かは既にいて、抱き合うように出迎えてくれた。
 だが、待っているはずの勝はおらず、銃太郎も早朝、アイヌを伴って大津へ向かい、
留守であった。